メガネ好き好きクラブ

眼鏡(の女の子)が好きな眼鏡のやつが書き残しています

老い追い

年始過ぎた頃、1年ぶりに地元に帰った。

 

相も変わらず冬は雪ばかりで、車がなければその辺で野垂れ死にしないけどほぼ移動不可能な田舎なのは変わらなかった。

 

街中はよくわからん箱もの行政でできた謎センターが新たにできており、「何に使うのかよくわかってない」と親と話した。でも美術館で新しい展示があったのはうれしかった。もっと郊外にも展示物を広げて観光客の行動範囲を広げてほしい。まあ交通機関などどんどん消えゆく一途なので、そんなことあり得ないのだけれど。そもそも郊外行っても店もくそもないのでそのメリットもあんまり感じない。

 

母方の実家に顔を出して、じいちゃんばあちゃんに挨拶をした。ひいばあちゃんも元気そうで、ワクチン5回目も打ったと話していた。だれも副作用あまりなかったらしくぴんぴんしていた。

 

でも、老いは一年前より確実に進んでいることはわかっていた。頭はしゃんとしている人だし、いまだに日記を欠かさずつけ、もう御年90は超えているのにだいたいのことは一人でできるひいばあちゃんだが、特に近年は持ち歩く歩行補助器具が変わっていた。

 

最初は何も持ってなかった。小学校入る前のガキんちょ俺をリアカーに乗せて、歩いて10分くらいの畑に連れて行ってくれた。俺を連れてかないときはチャリを乗り回していた。

中・高くらいには畑にいかなくなっていった。

大学入るころには外では杖を突き始めていた。

年一で帰るたびに家や出先では風呂に入らずデイサービスの時にのみ入るようになったこと、右手がもう痺れて痛くて編み物や書くのも精一杯だということを話していた。

就職で離れる際には家の中でも杖をついていた。壁には手すりが加えられていた。

今年あったときは、押し車になっていた。家のいたるところの段差がスロープになっていた。

 

喋り口もずっと変わらないし、ボケてる感覚は全くなかったけど、身体的衰えは絶対来るんだよなってすごく感じた。

 

これまで身近な人が死んだことは2回ほどあったけど、どちらも幼なかったからすごく悲しいことしか覚えてない。

 

今後、人の死に目が必ずあるのがいまだに実感できないっていつも思ってしまう。

父方のばあちゃんに挨拶したときは、4んだらこの家どうするかの話をした。生前整理は大事だし、親とも死んだ後のローンはどうだのの話はちょいとするが、それでも遠い先の話に感じる。このばあちゃんは100を超えたひいばあちゃんと生活してるが、最近は危なくて冬道あまり運転しないようにしてるらしいとも話した。

 

つい最近だと父が入院してたことを退院してから連絡をくれた。胆石たまって胆のう取ったらしかった。もう休日クラブ会員作れるくらいの年になってきたし、仕事柄むりすることが多いから、がたが来てもおかしくないが、それでも心配はしてしまう。

 

なんか直近で身近な人が亡くなったとかそういうことではないけれど、絶対あり得ないのに周りの人がずっと変わらないと思っていたのが、急激に老いというか時間の加速が起きたような気持ちになって、何かせかされて死に対する気持ち的な準備が必要なのかなっていつも思ってしまう。

 

ただ漠然とみんな老いてきたんだなということが、過去から追いかけてきてそれまでたまってた分を実感として感じた。

それだけです。

 

ながいきして~;;